地下鉄サリン事件があった日

今週のお題「平成を振り返る」

 

私などに平成の思い出などを語る資格はない。ほとんど日本にいなかったから。でも私の平成での私生活は、高校卒業、大学卒業、就職、結婚、出産、幾度かの引っ越し、子供たちの半自立などいろいろあった。アメリカでも 9-11 とか大きな事件はいろいろあったが、やっぱり日本のことを書きたい。


というわけでかなり古いが、「地下鉄サリン事件」について書く。なぜかと言うと、私はその時築地のオフィスで働いていて、この事件はけっこう印象に残っているからだ。


私のオフィスは本当に小さかった。築地駅から歩いて3分ほど。何階建てだったかは覚えていないが、あるビルの一階に私の会社のショールーム兼オフィスがあった。本社が大阪にあり、私のオフィスは東京支社だったので、社員10人強のうち半分は関西の人だった。東京にいながらにして、毎日、関西弁を聞いていた。関西弁はニュアンスが違ってたまに分からないこともあったが、徐々に慣れていった。また、関西人の商売魂みたいなものも学ぶことができた。同じ日本人なのに、ずいぶんと違った文化を持つなぁ、と思って本当に面白かった。恵方巻は今では結構普通になりつつあるが、その当時は関西のみの風習だった。


私はいつもラッシュアワーを避けるために30分ぐらい早く出勤していた。その日もいつものようにお茶を飲みながら、前日の残りの仕事を確認したり、身の回りの整頓などをしていた。


社員の一人から「地下鉄で何かあって電車が動いていない。歩いて行くから遅れます。」と連絡が来た。その後、数人から同じような電話がきた。なんとなく心配になって外に出てみたが、何も分からなかった。消防車なんかが通っていたぐらいだった。廊下でビルの掃除をしてくれていたおばさんに会って、「なんかあったみたいですね」とちょっと会話をした。そして、社員たちは30分かそこら遅れて出社したと思う。


営業さんたちは普通どおり営業に出かけた。私たち内勤は仕事をしながらも、ショールームにあった、古くて写りの悪いテレビを見ていた。私たちがいるビルがテレビに写っていた。ヘリコプターが飛んでいた。昼頃にはサリンが撒かれたことがはっきりしていたと思う。支社長から連絡があり、私たちは早く帰れることになった。サリンの影響がよく分からなかったので。定時の2時間前に帰ったが、駅はすでにいつもの駅になっていた。


その日の夜は、母から電話がきた。その頃は私はすでに実家から離れて暮らしていたのだ。実はこの事件が起こる前の週末に、私は両親と築地を散歩した。私のいたオフィスや本願寺、場外市場などを歩いて回ったのだろう。事件があった日 、父は会社から母に電話をした。私のオフィスの近くだけど、大丈夫か?と。テレビに写った本願寺を見て焦ったそうだ。(母はテレビを見ていなかったのか?あの人は「テレビ大好き」なので、事件のことはすでに知っていたと思うのだが。)


友達も電話をくれた。彼女は私の名刺を持っていたのだと思う。なぜかというと、彼女が前にオフィスに電話をくれた時、役職名までつけて私を呼んでいたからだ。社員10人ちょっとのオフィスだもん、誰も役職名までつけて電話はしてこない。でもおかげで、彼女は私が築地で働いていたことを知っていた。


その後はいつもの築地だったが、築地の警察署前は、はしごやカメラを抱えた報道陣たちが集まっているのをたまに見た。その都度、事件のことを考えた。被害にあった人たちのこと、オーム真理教のこと、サリンという毒物のことなどなど。


去年はやっと死刑執行されたね。残された家族や被害者のことを考えると、辛くなる。